2008年

ーーー8/5ーーー 二泊三日の山旅

 会社勤めをしていた時の友人と二人で、北アルプスを登った。場所は常念岳から燕岳へ至る縦走コース。山中二泊三日の幕営山行は、私にとって久しぶりのことであった。

 友人はまだ会社に勤めているが、自由に休みを取れる立場にあるので、平日を狙って予定を組んだ。夏休みの時期とはいえ、やはり土日の混雑は平日の比ではない。他の事と同様に、登山もまた空いているに越した事は無い。

 前日は、朝から激しい雷雨で、ギョっとするような天気だった。家内は延期した方が良いのではと言った。しかし、天気図を見れば、多少不安定ながら、ひどい天気が続く気配は無かった。

 当日の朝は、まあまあの天気だった。登るにつれて陽が射してきた。平日のせいか、登山者は少なかった。テント泊りの装備と食料を詰め込んだザックは、17キロほどの重さであった。谷沿いの道をゆっくりと登った。


 
 M氏は、本格的な登山はこれが初めてであった。自分の体で登れるかどうか、事前にずいぶん不安を感じたそうである。そのM氏に、山登りのコツはとにかくゆっくり歩く事だと私は説いた。こんなペースで目的地に着けるのだろうかと、心配になるくらいの速度で丁度良いのだと。

 正午ころ、テント場のある常念乗越に着いた。テントを設営してから常念岳の山頂を往復した。頂上からの展望は申し分無かった。目の前の槍穂高連峰を始めとして、雄大な北アルプスの景観が展開していた。それを見てM氏は、感嘆の声を漏らした。



 テントに戻って、持参したウイスキーを飲んだ。至福のひと時である。それから夕食を作った。既に酔っていたにも拘らず、懸案の飯炊きは上手くいった。



夕食後、テント場付近を徘徊した。夕陽に浮かぶ槍ヶ岳のシルエットが美しかった。




 翌朝は、目覚めの早いM氏にうながされて3時に起床。外は満天の星空だった。朝食をとって日の出を待つ。御来光は見事だった。それを眺める登山者の中に、「おおっ富士山が見える。その右は南アルプスだ」などと、見えていない山の名を挙げてデタラメを述べる中年男性がいた。こういう輩は、ある確率で必ずいるものであり、またそういう輩に限って、声が大きい。



 テントをたたんで、大天井岳に向かう。雲表のプロムナード・コースである。M氏は「まるで絵葉書のようだ」と言いながら、しきりに写真を撮っていた。

 

 大天井岳に近づいた頃から、私は脱水症状のようになった。意識が鈍くなり、暑いのに汗が出ない。前の日の夕方から夜にかけて、テントの中で酒を飲み過ぎたのが原因らしい。大天井岳の山頂直下にある山小屋で、スポーツドリンクを購入し、一気に飲み干した。

 それから燕岳に向かった。今回のコースは、およそ30年前に踏破したことがある。その時は天気が悪く、視界も利かず、雨の中を黙々と歩いた。同じ場所を通りながら、記憶は全く甦らなかった。

 燕岳に近づくと、稜線上は花崗岩の砂礫となる。いたるところに、コマクサの群落があった。中には、見渡す限りといったスケールの群落もあった。このように大きなコマクサの群落を見るのは、初めてであった。ため息が出るような美しさだった。




 燕山荘のテント場に着いた。山頂へ行くのは翌日に取って置いて、すぐにテントを張った。それから山荘に入って、生ビールとおでんを注文した。二人で一皿のおでんを頼んだのだが、美味しかったので、もう一皿追加した。

 テントに戻って、またチビチビと酒を飲んだ。M氏は前日と同じに、だいぶセーブしていた。体調を崩すのが心配だったようである。そういう慎重さは大切だ。また、度を過ぎた快楽を求めず、楽しい程度の範囲に留める節操も必要だ。しかしそれは、こんなに美しく荘厳な雰囲気の山の上にあっても、実行するのは難しい。

 夕陽が沈むとき、ブロッケンが見えた。自分の影が雲に映り、丸い虹がかかる現象である。テントの登山者も、山小屋の登山者も、外に出て立ち並び、嬉々としてその幻想的な光景に見入っていた。




 最終日も晴天で夜が明けた。朝食を食べた後、御来光を見に出るのも億劫で、テントの中でゴロゴロしていた。明るくなってから外へ出ると、安曇平が良く見えた。

 燕岳の山頂を、空身で往復した。登山道のわきを、ライチョウの親子が歩いていた。




テントに戻って撤収をした。他のテントは、ほとんど無くなっていた。それでも、時間が十分に余っていた。M氏はその晩私の家に泊ることになっていたので、あまり早く下山してしまうと、また飲み過ぎてしまう。山上での時間調整が必要だった。

 M氏の提案で、前日通過した蛙岩(げえろいわ)まで散策に出掛けた。前日撮りそこなったアングルで、蛙岩の写真を撮りたいとのことだった。私はザックから笛(ティン・ホイッスル)を取り出して、手に持って行った。立ち止まるたびに笛を吹いた。



 蛙岩のところで何曲か演奏した。行きずりの登山者が立ち止まり、座り込んで聞いていた。その内の一人の女性が話しかけてきて、笛の名前などを質問した。そして最後に「素敵な演奏を聞かせてくれて有り難う」と言った。

 時間調整も終わり、下山を開始した。歩き始めてすぐにガスがかかり、陽が射さなくなった。おかげで涼しかった。M氏が、少し足が痛いと言ってテーピングをした。それから、ゆっくりと歩いて下った。

 合戦小屋に着いたら、スイカを売っていた。この小屋の夏場の名物である。売り場にスイカ模様のビーチボールが数個ぶらさがっていて、バカバカしくも愛嬌があった。八分の一の切り身を買って、二人で分けて食べた。

 中房温泉に近づく頃、ポツポツと雨が落ちてきた。そして、仕上げの温泉、有明荘に入る直前に土砂降りとなった。まことに天気運が良い登山であった。

 温泉に浸かると、日焼けした腕が痛かった。両手を挙げたまま入った。M氏は終始長袖シャツを着ていたので、そのトラブルから免れた。初心者のM氏の方が、用意が良かったようである。

 温泉でゆっくりと体を伸ばしながら、三日間の山行を振り返った。事前に「登山には、上手くいって当たり前ということは無い」とM氏に語ったことを思い出した。しかし、今回の山行は、ちょっと気が抜けるほど上手くいった。

 我が家から見える北アルプスは、ほんのわずかに限られている。前山に邪魔されて、ほとんどの山は見えない。かろうじて中房渓谷の奥に連なる稜線が見える。その稜線が、今回踏破したコースである。

 稜線上に、大天井岳がある。我が家から見える、唯一の北アルプスの山頂である。自宅に戻って双眼鏡で眺めたら、山頂直下の山小屋「大天荘」が確認された。夜には、山小屋の灯火も見えた。

 見慣れた稜線であるが、そこを歩き通した記憶が付加されると、これまでに無い感慨を伴って望まれる。



ーーー8/12ーーー 北京五輪開幕

 北京オリンピックが始まった。オリンピックはその代表格であるが、スポーツの国際試合というものは、いろいろな意味で興味深い。

 例えば、勝ち負けに執着する度合い。それは選手が試合に掛ける意欲とか意気込みとは別に、「勝つためには何でもあり」という形で、裏の部分にも存在する。

 一時、「中東の笛」ということが問題になった。また、過去の世界大会では、審判を金で買収するというようなこともあったと聞く。日本人の、国内試合の感覚ではちょっと考えられないような事も、国際舞台では起こりうる。

 インチキをしてまで試合に勝って、何の意味があるのかと考えてしまうが、「それも含めて勝負であり、総合的な実力なのだ」という論理もあるのかも知れない。国によっては、国際試合で負けて帰るとリンチにあうというところもあったそうだから、選手としても深刻である。単一民族で、温和、善良なことを好む我が国の国民性から見れば、世界は広いということになる。

 ドーピングに関してもしかり。長野オリンピックのときに、ボランティアでドーピング・コントロールの仕事をしたことがある。事前の説明会で、その道の権威の大学教授から聞いた話が印象的だった。

 「日本では、インチキをしてまで勝とうという発想は少ないが、世界では違う。金メダルが取れるなら、残りの人生が短くなろうともドーピングをやるかというアンケートを実施すると、海外の選手では驚くほどYesが多い」

 こういう話を聞くと、外国人は勝負に汚く、平気でインチキをやると思ってしまいがちだが、そういうことではないだろう。この教授の弁は、ドーピングを摘発する側の人間として、厳しい言い方になっただけだと思う。正しい受け止め方は、「世界は広く、価値観は多様である」ということではないか。そして付け加えるならば、「そのように多様なものを一つのルールでコントロールする難しさ」となろう。

 ところで、世界にはいろいろな選手がいるというエピソードの一つとして、実際にあった話を紹介しよう。

 次女は小学生の頃、熱心に卓球をやっていた時期がある。私もよく卓球の試合のビデオを見たりした。

 世界選手権で、サムソノフという選手の試合を見た。相手は誰だったか覚えていないが、サムソノフは当時世界のトップクラスの選手であった。

 試合のある局面で、相手のボールがサムソノフのコートにかすって入った。審判はそれを見逃した。サムソノフは相手の得点であることを審判にアピールしたが、認められなかった。こういう場合、審判は自分自身でも、判定を覆す事ができないことがある。正直に申し出たサムソノフだったが、一点儲けた形となった。

 試合が再開して一球目、相手のサービスをサムソノフはネットに掛けた。しかしそれはミスではなく、わざとであった。明らかにそのような仕草であった。解説者は、儲けた一点を相殺するために、そのようなことをしたのだろうと言った。それにしても、舞台は世界選手権である。

 驚くべき選手がいたものである。彼は、審判が誤りを正せないのなら、自分が正してやるという行動に出たのである。他人はどう思おうとも、フェアでない状況をそのままにして前へは進まないという、強い意志が感じられた。彼にとっては、他人の錯誤により点が入るという不条理が、自らの全ての努力を台無しにするほど大きく、許し難いことだったのだろう。たった一点に掛けるその真剣さと誠実さが胸を打った。

 私は、卓球の世界ではこのようなことが当たり前なのかと疑問に思った。そして、娘の指導に当たっていた、元全日本クラスのプレーヤーだった人に聞いてみた。答えは、「国内では、そんな話は聞いた事が無い」であった。




ーーー8/19ーーー お盆に仕事

 信州の夏の暑さはお盆までと言われる。今年はそのお盆を待たずして、八月の上旬から、涼しい風の吹く日が現れるようになった。娘の迎えに出かける時、車の窓から入る夜風は、寒いくらいであった。暑い日が続いた昨年の八月と比べると、今年は過ごし易いようである。

 お盆の最中も毎日仕事をした。月末に松本で展示会があるので、その作品作りに追われている。お盆も土日も関係なく、作業をしなければ間に合わない。

 私の工房は、田園地帯の端にある。普段から静かな場所ではあるが、それでも農作業に使う機械の音などはときどき聞こえて来る。それがお盆になると、全く静かになる。シーンと静まり返って、時間が止まったようになる。その静寂を破って、工房の機械の音を周囲にまき散らすのは、かなり気まずいことである。

 私は大人になるまで、お盆に対する関心が低かった。我が家は神道だから、宗教行事としてのお盆とは無縁である。それに加えて、東京で生まれ育った私にとって、大都市という生活環境も、お盆というものを身近に感じなかった理由かも知れない。暮らしていた地域や友達の家庭を見渡しても、お盆を大事に過ごすという雰囲気は無かった。お店が休みになったり、勤め人が会社を休むということもなかったと思う。正月は一年の中で大切な休みだったが、それと比べてお盆は、有り難くも嬉しくも無い存在だったのである。

 私がお盆の位置づけを正しく認識したのは、お盆の時期に家内の実家を訪れるようになってからである。

 家内の実家は千葉県の房総地方にある。この地方は日蓮宗の勢力が強い。歩いて十分ほどのところにある菩提寺も、日蓮宗である。この宗派のせいか、宗教色が濃いように感じる。お盆の行事も本格的であった。

 お盆の前日までに祭壇を作り、飾り付けをする。茄子や瓜に箸をさして馬の形を作る。初日はお寺に詣で、蝋燭に火を灯して提灯に入れて持ち帰る。先祖の霊を自宅へ迎えるということである。

 中日の朝は墓参りをする。霊が不在となった墓に挨拶に行くのである。その時に、蓮の葉に賽の目に切った茄子と瓜と米粒を乗せたものを供える。それから家へ戻り、祭壇に握り飯を供える。霊が天竺へ出掛ける際の弁当である。乗り物は茄子と瓜の馬。そのうちお坊様がお経をあげにやって来る。檀家回りで忙しそうである。

 最終日は、午前中に霊が天竺から戻る(らしい)。夕方、蝋燭の灯火をお墓へ戻して、お盆の行事は終わる。

 家内の実家では、普段の日でも必ず仏壇に線香をあげる。実家に帰ったときは、家に入るとまず仏壇に手を合わせる。親戚や知人が来ても、最初に仏壇の前に行く。信仰というよりは、日常生活の習慣に近い印象を受けた。宗教的な意味合いよりも、先祖との繋がりを大切にする生活様式のようにも感じられた。

 そんな家であるから、お盆の期間は独特の雰囲気があった。仏壇のある室内は薄暗く、開け放たれた障子からそよ風が流れていた。外は賑々しい蝉時雨でも、部屋の中には深い静寂があった。灯明が灯り、線香の煙が香を運び、幽玄な趣きがあった。私のような無信心者にも、何か霊的な気配のようなものが感じられた。

 このような体験をして、私のお盆に対する認識は変わった。自分自身は相変わらず、宗教的には無色透明であるが、世間一般のお盆には礼を捧げねばならないと思うようになったのである。

 だから、お盆の最中に仕事をするのは気が引ける。機械の騒音で静寂を汚し、近隣家庭の信仰的時間に水をさすのが気にかかる。そのことを咎められ、傍若無人で無頼な輩と言われるのが心配である。伝統的な風俗習慣、あるいは文化というものを無視する、軽薄で無粋な人間と見られるのも残念である。実際には、誰からも文句を言われることは無いのだが。

 その悩みを家族に話した。家内は、「そんなに気になるのなら、家の中でできる仕事にしたら」と言った。一方、たまたま避暑で訪れていた母は、「仕事なんだから気にしなくていいんじゃないの」と言った。どちらも相応の年齢に達しているが、それぞれ生まれ育った環境を引きずっている。



ーーー8/26ーーー 展示会に向けて

今週末に松本で木工家の合同展示会が開催される。私も誘われて、今回から参加することになった。

以下に、この展示会で初めてお目見えする作品を紹介しよう。


コーヒーテーブル。アームチェアCatの雰囲気に会わせて、滑らかな曲面で脚部を構成した。ストレッチャーが十字に交わる部分は、ホゾ接合の強度を高めるために膨らませたが、それが面白い形でデザインのポイントとなった。

甲板は意図的に薄く、面取りも飾らなかった。全体が重い雰囲気になるのを避けるためである。








アームチェアCatの着色版。別に新しくは無く、既に納入実績もある作品だが、展示会に出すのは今回が初めてである。

今回は、上のテーブルも含めて椅子三脚を着色仕様にした。フォルムをより際立たせるためにそうしたのだが、これは展示会に出展する際の、一つの作戦である。









今回のために新規に製作した椅子。アームチェアCatの肘掛けを取り除いたものである。簡単に言えばそうなるが、全体のバランスを取るのが難しく、新規設計のようなプロセスを踏むことになった。

アームチェアCatとは違って、おっとりとした「ダサ可愛い」雰囲気の椅子である。








同じくアーム無しのCat。こちらはクッション座である。私は基本的に、一つのタイプの椅子を開発したときは、編み座版とクッション座版を揃えることにしている。

この椅子は無着色である。一緒に展示するクッション座のアームチェアCatに合わせた。








先月のこのコーナーで話題にした椅子。この椅子だけは編み座をイグサで作ってある。ほかの編み座椅子はペーパーコードを使っている。

私にとっては悩ましい歴史のある椅子。これが来場者にどう受け止めて貰えるか。今回の展示会は、この椅子にとっての正念場となるだろう。








小型の厨子。これも製作してから一年半くらい経つが、展示会に出すのは初めてである。

もともとは父の位牌を入れるために作った物で、現在東京で暮らしている母のワンルームマンションに鎮座している。

展示会に出すのは、それと同時に作った二つのうちの一つである。







今回用に作った小型のキャビネット。上に物を乗せて飾る台としての用途と、内部に小物を収納する機能を併せ持つ。

普段はこういうものを作らないのだが、展示会では思い切って「遊ぶ」ことも必要だとチャレンジした。

遊びにしては、加工が難しく、頭を悩ませる作業の連続だった。






 上に紹介したニューフェースに定番品を加え、さらにお手頃な価格の小物類を並べて、私のコーナーを構成する予定である。

 会場となる部屋の内装とか、照明とかによって、展示の見映えは多いに左右され、それによって来場者の反応も大きく変わって来る。自分の力だけではどうしようも無い部分もあるが、良い出会いを期待して、万全を尽くしたい。







 
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